杜氏とは?(SAKE DIPLOMA 勉強用)

杜氏は高度な醸造技術力をもつ、チームリーダーである。

杜氏とは、日本酒における醸造責任者で、酒造りのトップ技術者のことをいう。
 杜氏に求められる資質の一番に、「人格者であること」が挙げられることも多い。
 杜氏の下で実務をこなす蔵人には、副リーダーである「頭」、麹造りの責任者「麹屋(または代師)」、酒母造り責任者の「酛屋」、酒米を蒸す担当の「釜屋」、出来上がった醪の搾り担当「船頭(槽を扱う)」などがいて、それぞれ役割分担をする。
 杜氏は、すべての工程に目を配り、蔵の中の管理を行う。醸造計画の立案や、蔵人の人事も、杜氏の仕事である。
 元来、冬ごとに、杜氏と蔵人は、故郷から酒蔵に、集団で出向いていた(=出稼ぎ)。この人選も杜氏に一任される。

古代から現代へ

古代、祭りのたびに酒を造るのは女性の役割で、刀自(とじ)と呼ばれていた。その後、酒造りが男性中心になった際に、杜氏へ呼び方が変わった。
 日本書紀によれば、崇神天皇が任命した高橋活日命が、日本最古の杜氏とされているが、現代に連なる杜氏制度の系譜は、江戸時代初期に生まれている。約300年の歴史を誇る古い制度だ。
 元来、杜氏とは、酒蔵から独立した季節労働の技術者であった。
 江時代以前まで、通年行われていた酒造りだが、17世紀後半から灘で寒造りの技術が確立したことで、冬場に限定されるようになった。灘では冬の労働力が足りなくなり、近隣の丹波から多くの出稼ぎを受け入れた。これが、丹波当時の始まりである。18世紀中ごろに、丹波から杜氏が来たという文献が残っている。彼らにより、生酛づくりが確立した。
 杜氏集団は、それぞれ出身地の地名を冠した流派で呼ばれるようになり、流派ごとに特徴ある醸造方法を確立した。門外不出の醸造技術と、蔵人の人事権が、杜氏流派を支えていった。
 明治期に入り、東広島の醸造家三浦仙三郎氏が、この地の軟水に合う、低温長期仕込みを開発した。吟醸仕込みの基礎の造り方である。三浦氏が、この造り方を広島の酒蔵に広めるため、地元の杜氏を集めて広島杜氏を立ち上げたところ、1907年の第1回全国清酒品評会では、広島杜氏の酒が上位を独占することとなった。

三大杜氏と地域特性

丹波杜氏と並び、三大杜氏と呼ばれるのが岩手の南部杜氏、新潟の越後杜氏で、これらは農村系杜氏。また、漁師系杜氏の代表が石川の能登杜氏である。丹波当時は主に灘の酒造りを支え、南部・越後・能登杜氏らは、地域を特定せずに、全国各地で酒造りを行った。農村系である秋田の山内杜氏は、県内のほとんどの蔵で酒造りをしており、地域特化型の印象が強い。
 戦後日本酒の消費量も増えるにつれ、杜氏数も増え続けたが、1973年をピークに、日本酒の出荷量が減りだす。それに伴い、杜氏の数も2000人をピークとして、減少へと転じた。これは、高度経済成長期によって、地方の勤労機会が増加し、専業農家も減少し、若者の出稼ぎ労働者が減ったからである(シンプルな人数減少、高齢化)。
 平成に入り吟醸酒や純米ブームが生まれる。そのチャンスをすかさずつかんだのが南部杜氏である。門出を開いたことが盛況につながり、名実ともにトップ杜氏流派になった。
 改めて、地元杜氏を育てる動きもみられてきた。1989年福島の会津杜氏、2006年の栃木の下野杜氏、2013年には富山杜氏の旗あげである。

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